5月25日は、有無の日(ありなしの日)という記念日です。

有無の日(ありなしの日)は、村上天皇が、急な事件の時以外は、自分で政治を行わなかったことにちなんで制定された記念日です。

さらに詳しく、有無の日について興味がある場合は、このまま読み進めることで、記念日として、誰が制定したのか?なぜ、5月25日なのか?などの情報を理解することができます。
 

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「有無の日」に関する基本情報

ここでは、有無の日に関して、誰が制定したのか?どんな特徴があるのか?などの記念日としての基本的な情報を紹介します。

誰が制定した記念日なのか?

968年(康保4年)に、第62代の村上天皇が崩御なされたのが5月25日ということで記念日の日付が決められています

誰が制定した記念日なのか?

有無の日の記念日は、誰が制定したのか不明な記念日です。日本記念日協会にも登録されていません。

村上天皇は、いつの時代の天皇陛下なのか?

村上天皇は、平安時代中期の第62代天皇陛下です。

第十四皇子ながら天皇になった

村上天皇は、第60代醍醐天皇の第十四皇子であり、母は藤原基経女中宮穏子でした。第十四皇子でありながら、母親が中宮であったために、重んじられて朱雀天皇の譲位によって、天皇に即位しました。なお、第61代朱雀天皇とは母親が同じ弟でした。

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「有無の日」に関する豆知識

ここからは、「有無の日」にちなんだ関連する豆知識、雑学などを紹介します。

藤原忠平が関白を務めた

第61代朱雀天皇に続いて、外叔父藤原忠平が関白を務めました。しかし、藤原忠平が死去した後は、関白は置かず、天皇親政の形式をとりました。

承平天慶の乱で財政がひっぱくした

935年から940年の平将門と藤原純友が起こした「承平天慶の乱」によって、朝廷の財政が切迫したので、村上天皇は、倹約につとめました。

「後撰和歌集」の編纂を命令

951年(天暦5年)に、村上天皇は、「後撰和歌集」の編纂を命令しています。

「清涼記」の著者でもある

村上天皇は、「清涼記」の著者としても伝えられています。960年(天徳4年)3月には、内裏歌合を催行しており、歌人としても、または、庇護者(ひごしゃ:支援したり守ったりする人)としても評価されています。

琴や琵琶などの楽器にも精通

村上天皇は、琴や琵琶などの楽器にも精通しており、平安文化を開花させた天皇とも言われています。

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天皇の治績は「天暦の治」として後世景仰された

天暦の治(てんりゃくのち)とは、村上天皇の治世を理想した呼称で、天暦は村上天皇の治世の元号です。藤原忠平が死去後は、関白を置かずに、後世は、村上治世は天皇親政により理想の政治が行われた時代として聖代視されていました

同じく天皇親政が行われたとする10世紀前期の醍醐天皇の治世(延喜の治)と併せて、延喜・天暦の治と呼ばれています。

外戚政治の土台を作った天皇でもある

村上天皇の時代には、外戚政治の土台が一段と固められたので、公正さが失われたと言われています。

 

まとめ

有無の日(ありなしの日)は、村上天皇が、急な事件ののときのみ政治を行い、それ以外は、政治を行わなかったことにちなんで制定された記念日です。天皇陛下にちなんだ変わった記念日ですが、誰が制定したのか分からないので、正式な記念日というものではありません。

このような有無の日について興味を持った場合は、村上天皇にちなんで、「清涼記」や「後撰和歌集」などについて調べてみるのも良いかと思いました。